昨日と同じ場所だけれど、いる鳥が違う。
ツグミのポーズ
ベニマシコ♀
クロジ この正面顔しか撮れず
下の田んぼのタヒバリ
チョウゲンボウ
今日は少し暖かかったためか、鳥の動きが活発だった。
シロハラ
ルリビタキメス・・と思っていたけれど、翼にも青いとことがありオス幼鳥かな?
ルリビタキオス成鳥
ベニマシコ メス 顔だけちらっと
このルリビタキは・・メスかな(やや適当)
ミサゴのホバリング
他にも色々見られて、今日は満足。
おまけ 自転車で帰る途中、川の上をツバメが飛び交ってる?いくらなんでもツバメが来るには早い。越冬のイワツバメかな。(飛んでる燕は速すぎて・・)
雨続きで、なかなか鳥を見に行けない。次の週末は行けるかな。
句集『森の螢』 名取里美(角川書店)より
かほ上げて仲間のをらず鳰
鴨はペアでぴったり寄り添って泳いでいたり、家族くっついて眠っていたりと、仲良く行動しているのをよく見る。それに比べるとカイツブリは個人行動が多いように思う。群れは作っていても、繁殖期以外はそれぞれに違う方向を向いて餌を追いかけているのを見かける。それでも一応、仲間の存在はときどき確認しているのだろうか。
掲句では、潜っているうちにふと気づいたら、自分のみしかいない。きょとんという顔をしている鳰が可笑しい。一句前に「潜りてはかほあわせては鳰」がある。
まつ先に先生拍手菊日和
つかの間に吾も子老ゆる踊かな
ひとすぢに水渡りくる青螢
まだ何か見えてきさうよ初御空
客去れば一服熊手売る女
空蟬も蟬の骸も永田町
いうれいのやうにぶつかる夜霧かな
みづうみの光届かず檻の鶴
最近刊行の、炎環同人の句集より。
人間に縫目のありし年の暮 (句集『無用』 市ノ瀬遙 紅書房)
傷の縫合跡のことだと思うが、傷跡と言わずに、ただ縫目と言ったところに、俳味、温かみあり。肉体の傷に限らず、精神的なものとも。年の暮に、しみじみと。
大葦切また虚子虚子と騒ぎけり (同)
今年の夏には、もう、そうとしか聞こえないかも。キョ、キョキョシ・・。
小春日やドン・キホーテの忌を知らず (句集『澄める夜』 こがわけんじ 紅書房)
句集の中に、忌日の句がとても多い。作者は常々、忌日を通して過去の文学者や芸術家、近しい故人と対話しているのだろう。そのなかで、ふと、ドン・キホーテの忌日にまで思い至ったのが可笑しい。ドン・キホーテは最後、白昼夢から覚めて死んだのだったか。そう思うと少し哀しい。
ポンポンダリア短命なりしわが家系 (句集『訪ふ』 万木一幹 紅書房)
短命なのは悲しいことだけれど、季語のポンポンダリアは明るい。短く充実して、ということだろうか。儚さへの憧れのようなものも感じる。
ところで私の家系も長命な方ではなく、多産でもないので親戚がとても少なくなってしまった。しかし、なんとなく、自分自身はしぶとく長生きしてしまいそうな気もします・・。
昨日はとみすけを連れて大泉緑地へ。
鳥との距離は街の公園なので近いけれど、天気も悪く、さらっと一周のみ。
オオタカ待ちの人々、カワセミ待ちの人々がいた。
羊がいて・・・
猫がいて・・猫がみんな近づいてくるのは、餌をもらっているから?
爪とぎ!
久米田池にヘラサギが来ているということで見に行った。既に長い間滞在しているようで、鳥見の人も少ない。
ヘラサギは3羽いて、仲良く行動していた。
一羽は顔にうっすら傷があり、去年も来ていた個体かもしれない。
二羽がお互いの羽繕いみたいなことをしていて、イチャイチャしているように見えた。ペアなのかはわからないけれど。
ちょっと飛んだところ。
句集『すみれそよぐ』 神野紗希 (朔出版)
細胞の全部が私さくら咲く
肯定感がすごい。
身辺のこと・思いを、口語表現を多用し、軽やかに掬い取っていて屈託がない。途中まで、こんなに屈託がなくてよいのかと思うほど。
あげるわと言ってビスコと蟬の殻
水に映れば世界はきれい蛙飛ぶ
縞馬に羽根を描き足す休暇明け
作品は作者の実生活とリンクしていると思われ、途中で結婚・出産という大きなできごとがある。そう思って読むせいか、中盤から、すっきり爽やかなだけではない、もやっとしたトーンや、うっすらとした陰翳を備えた句が混じるように感じる。
胎児まず心臓つくる青胡桃
雨粒に鱗をきゅっと穴惑
羊水を鯨がよぎるクリスマス
母子手帳に数字満ちゆく青嵐
綿虫や子の眼球の仄青く
もう泣かない電気毛布は裏切らない
産み終えて涼しい切株の気持ち
切株というモチーフが何回か出てくる。どれも比喩表現で使われている。今後、作者の生活と俳句が変化してゆくにつれ、切株に託されるものも変わってゆくのだろう。